はじめに
ヘブル人への手紙1章は、神の御子であるイエス・キリストの栄光と卓越性を証ししました。神は終わりの日に御子によって語られ、その御子は御使いにはるかにまさる方として宣言されました。続くヘブル人への手紙2章1-4節は、このような大いなる救いをおろそかにしてはならないと警告しました。その警告は恐れを与える言葉ではなく、福音の大きさをもう一度見つめさせる恵みの勧めでした。
ヘブル人への手紙2章5-18節は、その大いなる救いがどのように成し遂げられたのかを示します。神の御子は人間を救うために人となられ、苦難と死を通られました。主は死を味わうことによって死の力を打ち砕き、私たちを兄弟と呼び、試練を受ける者たちを十分に助ける、憐れみ深く忠実な大祭司となられました。
この本文は、ヘブル人への手紙の中で初めて、イエス様の大祭司としての働きを本格的に扱います。この主題は、その後ヘブル人への手紙4章から10章にかけてさらに深く展開されます。その壮大な神学の種が、この短い本文の中にすべて蒔かれています。信徒はこの本文において、苦難を受けられたイエスのうちに、救いの確かさと深い慰めを共に見いだします。
本文の概要
ヘブル人への手紙2章5-18節は、人間の創造目的から出発し、罪による栄光の喪失を示し、イエス・キリストの受肉と苦難による回復へと進みます。本文は「人間とは何か」という問いから始まり、「ただイエスを見よ」という答えへ転換される、一つの救いの物語です。下の構造を先に把握すると、各段落の神学的な流れが一目で見えてきます。
| 本文 | 中心内容 | 神学的意味 |
|---|---|---|
| ヘブ 2:5 | 来るべき世は御使いたちに従わせられたものではない | 救いの世界の中心は神の御子 |
| ヘブ 2:6-8a | 人間は栄光と誉れの冠を与えられた存在 | 人間の創造目的と尊厳 |
| ヘブ 2:8b | まだ万物が人間に服しているのを見ていない | 罪と死の下にある人間の現実 |
| ヘブ 2:9 | ただイエスを見る | 救いの視線はキリストへ向かう |
| ヘブ 2:10 | 多くの子らを栄光へ導かれる | イエス様は救いの創始者 |
| ヘブ 2:11-13 | イエス様が私たちを兄弟と呼ばれる | 受肉と結合の恵み |
| ヘブ 2:14-15 | 死によって悪魔を滅ぼし、奴隷状態から解放される | 死の力を打ち砕いた贖いの働き |
| ヘブ 2:16-18 | 憐れみ深く忠実な大祭司 | 試練を受ける者たちを助けるキリスト |
1. ヘブル人への手紙2章5-18節は、なぜ人間の栄光を語るのか
ヘブル人への手紙2章5-18節は、御使いよりまさる御子を語った後、人間の栄光と誉れを扱います。これは流れの上で非常に重要です。ヘブル人への手紙は、単にイエス様が御使いより高い方であるという事実だけを語っているのではありません。その高い神の御子がなぜ低くなられたのかを示します。救いの方向と目的がここに現れます。
神の救いは、人間を罪から救い出すことだけで終わりません。救いとは、失われた人間の栄光と創造目的を回復することです。人間は本来、神に覚えられ、顧みられ、万物を治めるように召された存在でした。しかし罪と死の下で、人間はその栄光を十分に享受できなくなりました。ヘブル人への手紙はこの矛盾の前で、「ただイエスを見よ」と勧めます。
来るべき世は御使いたちに委ねられたものではない
ヘブル人への手紙2章5節は、「神は、私たちが語っている来るべき世を、御使いたちに従わせられたのではありません」と語ります。来るべき世、すなわち神の救いが完成する世界は、御使い中心の世界ではありません。その世界は、神の御子のうちに回復される人間の世界です。御使いは仕える霊ですが、救いの中心には、人間を回復するために人間となられた神の御子イエス・キリストがおられます。
人間は偶然の存在ではなく、神の目的の中にある存在である
ヘブル人への手紙2章は詩篇8篇を引用します。「人とは何者なので、あなたはこれを心に留められるのですか。人の子とは何者なので、あなたはこれを顧みられるのですか。」この問いは、人間の小ささを示すと同時に、神の恵みを示します。人間は自分自身で偉大な存在なのではありません。人間は被造物であり、弱い存在です。しかし神が人間を覚え、顧みられるので、人間は尊いのです。人間の尊厳は自己の能力から出るのではなく、神が人間に向けて持っておられる御心と愛から出ます。
2. 栄光と誉れの冠を与えられた人間
ヘブル人への手紙2章6-8節は、人間の本来の位置を示します。神は人間をしばらく御使いより低くされましたが、栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。これは創造の時に人間へ与えられた使命と結びついています。人間は神のかたちに造られ、神が創造された世界を世話し、治めるように召されました。したがって人間の栄光は、自分を高める栄光ではなく、神の下で神の御心を成し遂げる栄光です。
人間の小ささと神の顧み
「人とは何者なので」という問いは、人間がどれほど小さな存在であるかを悟らせます。人間は時間の前で弱く、死の前で無力であり、自分のいのちさえ自分で保つことができません。しかし詩篇8篇は、人間の小ささで終わりません。神はその小さな人間を心に留め、顧みられます。人間は小さいけれど、神に忘れられた存在ではありません。人間は弱いけれど、神に捨てられた存在ではありません。この恵みの上に、救いの論理が立てられます。
万物を治めるよう召された人間、しかし堕落後の現実
神は人間に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に置かれました。これは人間に与えられた統治の使命です。人間は神に従う管理者として、創造世界を治めるように召されました。しかし堕落以後、人間は万物を完全には治められません。むしろ病、恐れ、欲望、死に支配されています。ヘブル人への手紙2章は、人間の本来の栄光と現在の悲惨さを共に示すことによって、なぜイエス・キリストの救いが必要なのかを明らかにします。
3. まだ見えない現実、ただイエスを見る信仰
ヘブル人への手紙2章8節後半は非常に正直です。「今なお、万物が彼に従っているのを私たちは見ていません。」人間は栄光と誉れの冠を与えられましたが、今の現実はその御言葉に反して見えます。世界はいまだ混乱し、体は病み、関係は断たれ、死は避けられません。ヘブル人への手紙はこの現実を無視したり否定したりしません。
人間の現実だけを見れば絶望ですが、イエス・キリストを見るなら救いの道が開かれます。これがヘブル人への手紙2章5-18節の中心的な転換点です。
私たちは、まだ万物が人間に服しているのを見ていない
人間は自然を支配していると言いますが、小さな病の前でも揺さぶられます。人間は自由を語りますが、罪と恐れと死の力の前で、奴隷のように生きています。これが罪の下にある人間の現実です。人間は本来、栄光あるものとして創造されましたが、罪のためにその栄光を失いました。万物を治めるべき人間が、むしろ万物と死の恐れに支配されるようになったのです。
しかし私たちは、ただイエスを見る
ヘブル人への手紙は、人間の崩れた現実を見た後、「ただイエスを見る」と語ります。信徒の視線は、絶望的な人間の現実にとどまってはなりません。信仰は現実を否定しませんが、現実よりも大いなるイエス・キリストを見つめます。イエス様のうちに、人間の失われた栄光は回復され始めます。イエス様は人間が失敗した場所へ降りて来られ、死の苦しみを通られ、栄光と誉れの冠を受けられました。ですから信徒は、自分自身を見て落胆するのではなく、ただイエスを見つめることによって再び立ち上がります。
4. しばらく御使いより低くされたイエス
ヘブル人への手紙2章9節は、イエス様を「御使いたちよりも、しばらく低くされた方」と語ります。この言葉は、イエス様が本質的に御使いより低い方であるという意味ではありません。イエス様は神の御子であり、御使いにはるかにまさる方です。それにもかかわらず、イエス様は私たちを救うために、しばらく低くなられました。これが受肉です。神の御子が人間の場所へ降りて来られたことは、降格ではなく救いの道でした。
受肉は神の低くなられること
受肉は、神が人間を遠くから救われたのではないという福音の宣言です。イエス様は人間の苦しみをただ観察された方ではありません。主は血と肉をまとい、人間の場所へ入って来られました。イエス様には罪がありませんが、人間の弱さと苦難の場所へ降りて来られました。受肉と苦難は切り離されません。神の御子が人となられたということは、人間の最も深い苦しみと限界の中へ入って来られたという意味です。
イエス様はすべての人のために死を味わわれた
ヘブル人への手紙2章9節は、イエス様が「神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれた」と語ります。イエス様の死は偶然の悲劇ではありません。それはすべての人のための贖いの死です。「死を味わわれた」という表現は、イエス様が人間の最も深い恐れと限界の中へ入られたことを示します。人間にとって死は、避けることのできない最後の境界です。しかしイエス様はその死の場所にまで降りて行かれ、私たちに代わって死を味わわれました。
5. 苦難を通して全うされた救いの創始者
ヘブル人への手紙2章10節は、神が多くの子らを栄光へ導くために、救いの創始者を苦難を通して全うされたと語ります。この言葉は、イエス様に道徳的な欠けがあったという意味ではありません。イエス様は罪のない神の御子です。ここで「全うされた」とは、イエス様が救い主としての使命を完成されたという意味です。イエス様は苦難の道をみずから歩まれることによって、苦しむ者たちを栄光へ導く完全な救い主となられました。
多くの子らを栄光へ導かれるイエス
救いは、個人の罪の赦しだけを意味しません。ヘブル人への手紙2章は、救いをより広く示しています。イエス様は多くの子らを栄光へ導かれます。人間は失われた栄光を自分で回復することができません。しかしイエス様は人間の場所へ来られ、死を味わい、苦難を通られ、信じる者たちを栄光へ導かれます。信徒はイエスのうちに神の子として回復され、やがて完成する栄光を望みながら生きます。
苦難は失敗ではなく、救いの道であった
イエス様の苦難は敗北のように見えました。十字架は世の目には恥と失敗でした。しかしヘブル人への手紙は、その苦難が神の救いの計画の中にあったと語ります。苦難はイエス様を救いの創始者として示す道でした。主は苦難を通られることによって、苦しむ者たちを助けることのできる方となられました。ですから信徒は、苦難の中でも、自分は捨てられたと決めつけません。苦難を受けられたイエスがその道を知っておられ、その道で私たちを支えてくださいます。
6. 私たちを兄弟と呼ばれるイエス
ヘブル人への手紙2章11-13節は、イエス様が信徒たちを兄弟と呼ぶことを恥となさらないと語ります。これは驚くべき福音の宣言です。神の御子が、弱い私たちを兄弟と呼んでくださいます。イエス様は聖なるものとしてくださる方であり、信徒は聖なるものとされた者たちです。それにもかかわらず、ヘブル人への手紙は、この二者が一つの源から出ていると語ります。これはイエス様と信徒の間に成し遂げられた深い結合の恵みを示します。
聖なるものとしてくださる方と、聖なるものとされた者たち
イエス様は私たちを聖なるものとしてくださる方です。信徒は自分の力で聖くなる存在ではありません。イエス・キリストの贖いの働きのうちに、神に属する民として区別されます。聖さは単なる倫理的改善ではありません。聖さとは、神に属する者として新しくされることです。イエス様は罪と死の下にいた私たちを、神に属する民として立ててくださいます。
兄弟と呼ぶことを恥となさらない主
イエス様は、私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさいません。私たちは自分の罪と弱さのために、神の前から隠れたくなることがあります。しかしイエス様は、そのような私たちを見捨てられません。この言葉は信徒のアイデンティティを新しくします。私たちは失敗と恥によって定義される存在ではありません。キリストのうちに神の家族として召された存在です。イエス様が私たちを兄弟と呼ばれるなら、私たちはもはや恐れと恥に縛られて生きる必要はありません。
7. 血と肉を共にされたキリスト
ヘブル人への手紙2章14節は、子たちが血と肉を持っているので、イエス様も同じように血と肉を持たれたと語ります。これはイエス様の完全な人性を強調します。イエス様は人のように見えただけの方ではありません。主は本当に人間となられました。人間のからだをまとい、人間の人生の中へ入って来られ、人間の死までも担われました。
受肉は救いのための連帯である
イエス様が血と肉を持たれたのは、単に人間を理解するためだけではありません。それは贖いのための連帯でした。人間を救うためには人間の場所へ来なければならず、死の下にある者を救い出すためには死の場所にまで降りて行かなければなりませんでした。受肉は、神の愛がどれほど深く降りて来たのかを示します。神は人間の苦しみを遠くから眺められませんでした。キリストのうちに人間の場所へ降りて来られ、私たちに代わって死を味わわれました。
8. 死の力を打ち砕かれたイエス
ヘブル人への手紙2章14-15節は、イエス様が死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解放されたと語ります。これはヘブル人への手紙2章の中心的な贖罪論的宣言です。イエス様は死を避けて死に勝たれたのではありません。死の中へ入って行かれ、死に勝たれました。十字架は敗北ではなく、死の力を打ち砕いた勝利の道でした。
死によって死に勝たれたキリスト
人間にとって死は最後の敵です。死は人間の力と知恵を打ち砕きます。どれほど強い人であっても、死の前では自分のいのちをつかみ続けることはできません。しかしイエス様は死を通られることによって、死の力を無力にされました。主の十字架と復活は、死が最後の主人ではないことを宣言します。信徒の最後の言葉は死ではなく、復活のいのちです。
死の恐れから解放された信徒
ヘブル人への手紙2章は、人間が死の恐れのために奴隷となっていると語ります。死の恐れは、単に肉体の死に対する恐怖だけではありません。喪失の恐れ、失敗の恐れ、見捨てられる恐れ、終わりがあるという恐れが人間を縛ります。イエス様はその恐れの鎖を断ち切られました。信徒はいまだ苦難を経験し、死に直面しますが、死の力の下で生きる者ではありません。私たちは死を味わわれたイエス、死に勝たれたイエスのうちに自由を得た者です。
9. 憐れみ深く忠実な大祭司であるイエス
ヘブル人への手紙2章16-18節は、イエス様が御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫を助けてくださると語ります。そして、主がすべての点で兄弟たちと同じようになられたことによって、憐れみ深く忠実な大祭司となられたと宣言します。この大祭司の主題は、ヘブル人への手紙全体において非常に重要です。第4講で始まったこの主題は、後にヘブル人への手紙4章、5章、7章、9章、10章でさらに深く展開されます。イエス様は私たちを神へ導く完全な仲保者です。
アブラハムの子孫を助けてくださるイエス
イエス様は御使いたちを助けるのではなく、アブラハムの子孫、すなわち神の契約の民を助けてくださいます。信徒は自分で自分を支える存在ではなく、キリストに支えられた存在です。信仰の歩みは、私がどれほど強く主をつかむかだけにかかっているのではありません。より根本的には、主が私を支えておられる恵みにかかっています。試練と苦難の中でも信徒が完全に崩れ落ちない理由は、憐れみ深く忠実な大祭司が私たちを支えてくださるからです。
民の罪を贖われる大祭司
大祭司は神と民との間に立つ仲保者です。ヘブル人への手紙2章17節は、イエス様が民の罪を贖うために、憐れみ深く忠実な大祭司となられたと語ります。イエス様の大祭司としての働きは、罪を軽く見過ごす働きではありません。主は罪を実際に贖われました。主はご自身のからだと血によって、神へ進み出る道を開かれました。ですから信徒は自分の義によって神へ進み出るのではなく、イエス・キリストの贖いにより頼んで神へ進み出ます。
試練を受ける者たちを十分に助けるイエス
ヘブル人への手紙2章18節は、「ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」と語ります。イエス様は私たちの苦しみを理論としてだけ知っておられる方ではありません。主はみずから試練と苦難を経験されました。この事実は信徒に深い慰めを与えます。試練を受けている信徒は一人ではありません。苦難の中で見捨てられているのでもありません。私たちには、私たちの弱さを知り、罪を贖い、時にかなって助けてくださる、憐れみ深く忠実な大祭司がおられます。
10. 詩篇8篇の引用が証しする福音の流れ
ヘブル人への手紙2章6-8節は、詩篇8篇を引用して人間の本来の栄光を示します。しかしヘブル人への手紙は、その御言葉を単なる人間論としてだけ読むのではありません。人間の栄光が罪によって損なわれた現実を語った後、その成就をイエス・キリストのうちに見いだします。詩篇は人間が誰であるかを問い、ヘブル人への手紙はその問いに対して「ただイエスを見よ」と答えます。
| 詩篇8篇の主題 | ヘブル人への手紙2章の解釈 | キリストにおける成就 |
|---|---|---|
| 人とは何者なのか | 人間の小ささと神の顧み | イエス様が人間の場所へ来られる |
| 栄光と誉れの冠を与えられる | 人間の本来の創造目的 | イエス様が栄光と誉れの冠を受けられる |
| 万物をその足の下に置かれる | まだ完全には見えない現実 | キリストのうちに回復される統治 |
| 人間の栄光 | 罪と死によって損なわれた栄光 | 多くの子らを栄光へ導かれる |
人間の真の栄光は、人間自身のうちに完成されません。苦難を受けられたイエス・キリストのうちに、人間の栄光は回復され、完成されます。詩篇8篇は創造時の人間を歌いましたが、ヘブル人への手紙は、その歌が真に成就する場所がイエス・キリストであることを明らかにします。旧約が指し示した人間の栄光は、まずイエス様のうちに実現され、信徒はその方のうちにその栄光を共に受けるようになります。
11. 張ダビデ牧師 ヘブル人への手紙講解の第4講の流れ
張ダビデ牧師 ヘブル人への手紙講解アーカイブにおいて、第4講は前の三つの講の流れを受け継ぎます。第1講は、神が終わりの日には御子によって語られたという宣言を扱いました。第2講は、その御子が御使いにはるかにまさる方であることを、旧約の引用を通して証ししました。第3講は、その御子が告げられた大いなる救いをおろそかにしてはならないという最初の警告を扱いました。そして第4講は、その大いなる救いがどのように成し遂げられたのかを示します。
第1講から第3講が「御子はどのような方なのか、その救いはどれほど大いなるものなのか」を宣言したとすれば、第4講は「その救いはどのように成し遂げられたのか」を解説します。神の御子はなぜ人となられたのでしょうか。なぜ苦難と死を通られたのでしょうか。ヘブル人への手紙2章5-18節は、その問いに対する福音の答えです。御子の栄光を宣言することと、御子の低くなられた姿を解説することは互いに矛盾しません。むしろ、低くなられたことが栄光の深さをさらに明らかにします。
また第4講は、ヘブル人への手紙全体で最も重要な神学的主題である「大祭司イエス」を初めて紹介します。2章17-18節で始まったこの主題は、ヘブル人への手紙4章14-16節で本格的に扱われ、5章から10章にかけて完全に展開されます。したがって第4講は、ヘブル人への手紙の後半全体を理解する神学的な鍵です。この講を深く読む読者は、その後の講解をはるかに豊かに理解することができます。
12. 今日の適用
結び:ただイエスを見よ
ヘブル人への手紙2章5-18節は、人間についての深い考察から始まり、イエス・キリストのうちにある救いで終わります。人間は栄光と誉れのために造られましたが、罪と死の下でその栄光を失いました。しかし神はその人間をあきらめられませんでした。神の御子が人間の場所へ降りて来られ、死の苦しみを通られ、多くの子らを栄光へ導く救いの創始者となられました。
ヘブル人への手紙は、これらすべての事実を「ただイエスを見る」という一言に凝縮します。人間の現実がどれほど暗く、苦難がどれほど深くても、信徒の視線はただイエス・キリストへ向かいます。主は私たちを兄弟と呼ぶことを恥となさらず、血と肉をまとって私たちの場所へ来られ、死に勝って神の右の座に着かれました。そして今も、憐れみ深く忠実な大祭司として私たちを支え、試練を受ける者たちを十分に助けてくださいます。
信徒に必要なのは、より強い意志やより完全な信仰ではありません。ただイエスを見つめることです。その視線が揺らぐたびに、ヘブル人への手紙は再び語ります。「ただイエスを見よ。苦難を受けられたイエス、死に勝たれたイエス、栄光の冠を受けられたイエス、私たちを兄弟と呼ばれるイエス、私たちを支えてくださるイエスを見よ。」そのイエスのうちに、人間の失われた栄光は回復され、信徒の信仰は最後まで守られます。
黙想の問い
- 今、私の視線はどこに固定されているだろうか。崩れた現実だろうか、それともただイエスだろうか。
- 神が私を栄光と誉れのために造られたという事実は、今日の私の生き方をどのように変えるだろうか。
- イエス様が血と肉をまとい、私の場所へ来られたという告白は、今の私の苦難の中でどのような慰めとなるだろうか。
- 私は死と喪失、失敗の恐れの前で、それに勝たれたキリストにより頼んでいるだろうか。
- 試練の中で、憐れみ深く忠実な大祭司であるイエス様のもとへ大胆に進み出ているだろうか。それとも一人で抱え込もうとしているだろうか。